2.軽井沢雲場池~沓掛宿~信濃追分

軽井沢の雲場池から信濃追分を散歩しました。

朝の雲場池です。
雲場池から中山道を歩き離山の軽井沢町歴史民俗資料館へ
この資料館では中山道の軽井沢宿、沓掛宿、追分宿の歴史や軽井沢町の開発に関する資料が展示されています。
軽井沢町歴史民俗資料館の隣には市村記念館があります。
この市村記念館は、元首相の近衛文麿が大正初期に建築した別荘であり、その後、政治学者である市村今朝蔵という人が近衛文麿から購入したもののようです。
市村記念館から中軽井沢へ
中軽井沢からは雄大な浅間山を望むことができます。
現在の中軽井沢は、江戸時代、沓掛(くつかけ)宿でありました。
この沓掛宿は、軽井沢宿、追分宿とともに浅間三宿と呼ばれていたようです。沓掛の名は、難所であり荒天寺は人も荷も足止めされた碓氷峠の入り口であることに由来しているようです。荒天時、旅人はこの地で草鞋(?)を掛けて天気の回復を待っていたのでしょうか。
中山道には、「左くさつへ」と彫られた石標がありました。写真では、「左」ではなく「右」の文字に見えますね。
現在のロイヤルプリンス通りを北へ歩いて行くと長倉の牧跡があります。
平安朝初期、この地に官牧がつくられ、朝廷へ馬が献上されたようです。この付近は広大な牧場だったようですね。
ランチは、ロイヤルプリンス通りから少し別荘地へ入ったところにあるテラスサクマへ
木々に囲まれた静かなカフェでした。
沓掛宿から追分へ向かう中山道には街道の面影が残っています。
追分付近から見る浅間山
しなの鉄道の信濃追分駅へ
いつも車で移動する中軽井沢付近ですが、ゆっくり歩いて見ると思いがけない発見がありますね。
これで雲場池から信濃追分の散歩を終わります。

1.軽井沢宿~旧碓氷峠

軽井沢宿から旧碓氷峠を散歩しました。

まず、軽井沢宿(旧軽井沢銀座)へ
旧軽井沢銀座の茜屋より北東は、現在でも少し軽井沢宿の雰囲気が残っていますね。
浅野屋でランチ用のパンを購入し、旧軽井沢から旧碓氷峠へ向かいます。
左手に老舗旅館のつるや旅館があります。このつるや旅館は、江戸時代は休み茶屋でありましたが、明治期から旅館に変わり、大正期には室生犀星、萩原朔太郎、芥川龍之介など多くの文人が逗留したようですね。
さらに、進んで行くと、軽井沢を避暑地として訪れた英国聖公会宣教師ショーによって明治28年に創設されたショー記念礼拝堂や別荘として使用されたショーハウスがあります。ショーは、明治19年に初めて軽井沢に避暑に訪れ、佐藤万平の「亀屋」(現在の万平ホテル)に滞在し、以降、毎夏にこの地を訪れ、静思、休養、親交の場とし、礼拝所を設けたようです。そして、軽井沢を訪れる西洋人が増加し、軽井沢は避暑地、別荘地へと変貌を遂げていきます。
ショー記念礼拝堂を過ぎると、矢ケ崎川に架かる二手(にて)橋があります。この二手橋は、軽井沢宿との別れを告げる場所であったようですね。
さらに進むと、楓の緑が鮮やかな遊覧歩道があります。
この遊覧歩道は、ほぼ江戸時代の中山道に沿って作られているようです。
しかし、近代的な吊り橋も架かっています。
遊覧歩道を登ると旧碓氷峠の見晴台があります。「碓氷」の名は、この付近は霧が濃く、昼間でも薄い日差し(うすひ)であることに由来しているようですね。写真は、見晴台から妙義山方面を望んでいます。
また、見晴台からは台形状の離山も望めます。
綺麗なヤマユリが咲いていました。
旧碓氷峠の群馬県側には熊野神社と長野県側には熊野皇大神社があります。と言っても、一つの社殿が両県に跨っており、参道と本宮の中央が県境になっています。
参道の県境です。
お賽銭箱は、群馬県側(右)と長野県側(左)にそれぞれあります。
また、境内には、樹齢800年余りと伝えられる御神木の科(しな)の木があります。信濃には科の木が多く、一説には「信濃は科野なり」とも言われているようですね。
神社の前には、名物力餅が食べられるお店があります。この力餅は、中山道最大の難所である碓氷峠を越える旅人が道中安全を願い熊野神社にお参りをした際、護符として餅が授与されたことが始まりのようです。
その力餅を県境にある「しげの屋」でいただきました。上の写真の赤い線は県境を表し、店内にも県境を示す看板がありました。胡桃味の力餅が美味しい。
力餅を食べた後、碓氷川の水源に行きました。
碓氷峠は信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺であり、神社の群馬県側には烏川を経て利根川と合流する碓氷川の水源があります。
この水源の水は、明治天皇が北陸巡幸された際に献上されたようですね。
これで、軽井沢宿から旧碓氷峠の散歩を終わります。