4.小田井宿、岩村田宿 小諸城址(懐古園)

今回は、小田井宿、岩村田宿と小諸城址(懐古園)を散歩しました。

まず、小田井宿へ
小田井宿は、江戸から数えて21番目の宿場であり、追分宿の次の宿場です。追分宿に大名たちが宿をとり、小田井宿に姫君や側女たちが宿をとったことから小田井宿は「姫の宿」と呼ばれたようです。
小田井宿の本陣跡
小田井宿の本陣は、孝明天皇の異母妹の皇女和宮が公武合体のため14代将軍家茂に降嫁した際に休憩をとったようです。川越えが東海道より少ない中山道を江戸に向かう降嫁の行列は、総勢3万人、長さ50Kmにまで及んでいたそうです。
 小田井宿から岩村田宿へ
岩村田宿は、江戸から数えて22番目の宿場でありましたが、岩村田藩の城下町であったため商業の町として発展してきたようです。
 岩村田宿にある龍雲寺へ
龍雲寺は、武田信玄公の遺骨が埋葬されたと伝えられる寺院です。
 信玄公は、将軍足利義明の呼びかけに応じて織田信長征伐をするための西上作戦の際に死去し、諸説あるようですが、この龍雲寺に遺骨が埋葬されたと伝えられているようです。写真は、信玄公の霊廟です。
 龍雲寺から西念寺へ
西念寺は、小諸藩主仙石氏と岩村田藩主内藤氏の菩提寺です。
 境内には、あまり馴染みがありませんが戦国武将の仙石秀久のお墓があります。
仙石秀久は、豊臣秀吉の最古参の家臣であり、秀吉の中国攻略に従軍し、また黒田官兵衛とともに淡路遠征して淡路島を平定し、その功績が認められていち早く大名に出世したそうです。その後、九州の島津薩摩藩と戦った戸次川の戦いで敗走したため、改易されたが、後の北条氏小田原征伐で活躍し秀吉に許されたそうです。秀吉の死後、秀久は、家康に接近し、家康が征夷大将軍に任ぜられると小諸藩初代藩主になりました。写真は、初代小諸藩主仙石秀久のお墓です。
中山道散歩はここで終了し、北国街道にある小諸城址へ
小諸城は、戦国時代に信玄の命を受けた軍師山本勘介の縄張りとなり、築城されたとする説がありますが、定かでないようです。その後、小田原征伐で功を挙げた仙石秀久が入城し、現在の城郭に改修されたようです。
小諸城は、明治期になりその役割を終え、懐古園となりました。写真は、懐古園の入り口となっている三の門です。
仙石秀久が築いたとされる野面積み石垣(自然石を加工することなくそのまま積み上げる石垣)です。小諸藩主として仙石秀久は、小諸城の城郭の改修、領地の開拓や整備に熱心に取り組んだそうです。
懐古園には、明治期に小諸義塾に赴任した島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の歌碑があります。「小諸なる古城のほとり・・・」
古城から見た千曲川
歌碑の近くの展望台から千曲川を眼下に望むことができます。
涼しい秋風の中、萩、桔梗、女郎花、薄などの秋の七草を見ながら気持ちの良い散歩ができました。これで小田井宿、岩村田宿と小諸城址(懐古園)の散歩を終わります。

今回の散歩地点