12.下諏訪宿、和田宿

下諏訪宿と和田宿を散歩しました。
まず、下諏訪宿にある諏訪大社下社秋宮へ
御柱祭で有名な諏訪大社は上社と下社に分かれ、その下社が下諏訪宿にあります。さらに、下社は秋宮と春宮に分かれています。秋宮に8月から翌1月まで神が祀られ、春宮に2月から7月まで神が祀られるそうです。
秋宮の神楽殿
諏訪大社の各宮の社殿の四隅にそれぞれ御柱が建てられています。
写真は秋宮の一の御柱です。
御柱は6年毎に建て替えられ、そのときに行われるのが御柱祭ですね。
秋宮の御神湯、龍の口から流れ出るお湯はとても熱い温泉です。
下諏訪宿の中山道
下諏訪宿の本陣跡
秋宮から春宮へ
春宮の参道にある下馬橋
下馬橋は室町時代に造られた太鼓橋であり、下社では最古の建造物のようです。
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下諏訪宿から和田峠方向へ行くと木落し坂があります。木落し坂は、山から切り出した御柱を落とす坂であり、最大斜度が35度、距離が100mあるそうです。
木落し坂の上に置かれた観光用の御柱
木落し坂から和田峠へ、和田峠から岡谷方面を望む
下諏訪宿から和田峠を越えた隣の和田宿までは22Kmもあり、江戸時代、和田峠越えは難所だったようです。
和田宿の本陣跡
下諏訪宿と和田宿の散歩を終わります。

(追)秋宮から見た諏訪湖

7.鴻巣宿、深谷宿

今回は、鴻巣宿、深谷宿を散歩しました。

鴻巣宿は、日本橋から数えて7番目の宿場であり、鷹場、古刹、雛人形で有名です。
鷹場としては、徳川家康、秀忠、家光などが長期逗留していたようです。
鴻巣には古刹の勝願寺があります。勝願寺は、家康が鷹狩りに鴻巣を訪れたとき、この寺の住職の言葉に深く感銘し、徳川家の庇護を受けるようになり、三つ葉葵の使用が許可されたそうです。
仁王門、訪れる人は殆どいません。
また、勝願寺には真田幸村の兄信之の正室小松姫の墓があります。小松姫は、晩年江戸から草津温泉に湯治に向かう途中、ここ鴻巣で亡くなったそうです。小松姫の墓は勝願寺以外に沼田の正覚寺、上田の芳泉寺にあるようです。
鴻巣は雛人形作りが盛んです。鴻巣の雛人形作りは江戸時代中期に始まり、「鴻巣雛」として江戸で人気を博したそうですね。
後日になりますが、深谷宿を散歩しました。
深谷城は、深谷上杉家により築城され、江戸時代に将軍家光の老中となった酒井忠勝が入城していたようです。
現在は深谷城址公園になっています。
深谷は、深谷ネギが有名ですが、江戸時代は藍玉の産地、明治時代は煉瓦の産地として有名だったようですね。深谷駅の駅舎は、東京駅に深谷産の煉瓦が使用されたことから東京駅を模して作られています。
深谷は近代日本経済の基礎を築いた渋沢栄一生誕の地であり、駅前には渋沢栄一の銅像があります。
渋沢栄一は、幕臣としてヨーロッパに渡り、経済や経営を学び、帰国後数多くの企業の設立や経営に関わり日本資本主義の父と呼ばれていますね。写真は深谷市血洗島の渋沢栄一の生家です。
深谷の北部には、日本煉瓦製造の工場の跡がありました。日本煉瓦製造は、明治時代に渋沢栄一らによって設立され、2006年まで存続していたようです。日本煉瓦製造で製造された煉瓦は、東京駅ををはじめ、万世橋の高架橋、法務省旧本館、日本銀行旧館などに使用されたようです。写真は、煉瓦工場の跡です。
日本煉瓦製造株式会社の事務所跡です。
また、この工場で製造された煉瓦は当初利根川と江戸川を使って東京に運ばれていましたが、輸送力を向上させるため明治28年に工場と深谷駅の間を結ぶ専用鉄道が敷かれていたようです。写真は、専用鉄道の鉄橋跡です。
渋沢栄一は、深谷の発展にも貢献していたのですね。

これで、鴻巣宿、深谷宿の散歩を終わります。

6.板鼻宿、安中宿散歩

今回は、板鼻宿と安中宿を散歩しました。

板鼻宿は、江戸から数えて14番目の宿場であり、旅籠の軒数が50を超え、上州の中では最も大きな宿場町であったようです。
この板鼻宿が大きな宿場町になったのは、幕府が関東防衛のため碓氷川に橋を架けることを許さず、一旦川止めになると多くの人と物資が溢れたことによるようです。写真は碓氷川に架かる旧国道18号線の鷹之巣橋です。
 現在の碓氷川は水量が少なく、歩いて渡れそうですが、江戸時代は水量が多く渡しが必要だったようです。写真は、碓氷川渡し場跡です。
また、鷹之巣橋の近くには鷹巣神社の入り口、参道があります。しかし、参道の先は旧国道18号線があり、社殿がありません。一体どうなっているのでしょう? 写真は、鷹巣神社の入り口です。
 参道の石橋です。
 社殿は、現在の旧国道18号線を超え、碓氷川を見下ろす鷹巣山にあったようです。この鷹巣神社は、鷹巣山に鎮座する板鼻の鎮守だったようですが、現在は門が残るのみです。写真は、急坂を上ると見えてくる鷹巣神社の門です。
板鼻宿には、板鼻堰用水路があります。この板鼻堰用水路は、鷹巣山麓の堰口から水を取り入れ、板鼻、高崎八幡、剣崎、豊岡を経て烏川に落水する延長15キロメートルの用水路であり、1610年頃に作られたようです。板鼻地区では、この用水路の水を利用して鯉の養殖を行っている家が現在もあります。写真は、板鼻堰用水路であり、柵の右は用水路の水を引いた池です。
 鷹巣山麓の堰口から流れる板鼻堰用水路です。
また、板鼻には、B級グルメ、タルタルソースかつ丼で有名(?)な板鼻館があります。この板鼻館は、江戸時代、「角菱屋」という旅籠だったようです。店内には「角菱屋」と書かれた看板がありました。
板鼻宿から安中宿へ
殆ど遺構が残っていない安中城址には、安中藩安政遠足之碑があります。安政2年(1855)、藩主の板倉勝明が藩士の鍛錬を目的に、安中城門から碓氷峠の熊野権現神社まで七里七町を走らせ、徒歩競争をしたようです。
また、隣りの石碑に日本マラソン発祥の地安中と刻まれています。しかし、安政遠足をマラソンとするのは疑問が残りますね。
安中城址の近くには、新島襄が設立した安中教会があります。この安中教会は、アメリカから帰国した新島襄が安中に滞在した3週間の間に新島襄により洗礼を受けた人達によって設立されたようです。
新島襄は、アメリカから帰国した後の3週間を父母が住む安中の家で過ごしました。しかし、新島襄は江戸神田に安中藩士の子として生まれたため、殆ど安中で過ごした時期はなかったようです。
新島襄
これで板鼻宿と安中宿の散歩を終わります。

今回の散歩場所

5.新町宿、倉賀野宿、高崎宿

今回は新町宿、倉賀野宿、高崎宿を散歩しました。

まず、新町宿近くの群馬県と埼玉県の県境にある神流川古戦場跡へ
この地で行われた神流川合戦は、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形(現在の寄居町)城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いです。この合戦は、関東地方で最も大きな戦いと言われているようです。
この付近で合戦が行われたのでしょうか。写真は、殆ど流れがない神流川です。
神流川の合戦のとき、滝川一益は、現在の玉村町の軍配山古墳に本陣を張って軍配をふるったとされています。写真は、その軍配山古墳です。
中山道と例幣使街道の分岐に設けられた倉賀野宿の常夜燈
例幣使街道は、江戸時代、毎年朝廷から日光東照宮に派遣されていた使いである日光例幣使が通る街道です。この例幣使街道は、倉賀野宿で中山道から玉村宿へ分岐し、下野まで続きます。
倉賀野宿の脇本陣跡
高崎宿の長松寺
ここ長松寺の客間は、高崎城から移築されたものであり、江戸幕府三代将軍徳川家光の弟、徳川忠長(国松)が切腹した部屋と伝えられています。しかし、高崎大信寺で自刃したとの説もあり、定かではありません。兄家光との幼少期の将軍継承争いが、忠長の自刃につながってしまったのかもしれませんね。
また、長松寺には、狩野派の絵師「狩野探雲」による天井絵があります。
高崎宿と板鼻宿の間に上野国一社八幡宮(通称、八幡八幡宮)があります。
写真は、参道の階段です。
また、八幡宮の隣には、東京文京区大塚にある音羽護国寺の前身である大聖護国寺があります。五代将軍綱吉は、ここ大聖護国寺の住職に、高田御薬園の地(現在の大塚)を与え、音羽護国寺を開かせたようです。
これで、新町宿、倉賀野宿、高崎宿の散歩を終わります。