6.板鼻宿、安中宿散歩

今回は、板鼻宿と安中宿を散歩しました。

板鼻宿は、江戸から数えて14番目の宿場であり、旅籠の軒数が50を超え、上州の中では最も大きな宿場町であったようです。
この板鼻宿が大きな宿場町になったのは、幕府が関東防衛のため碓氷川に橋を架けることを許さず、一旦川止めになると多くの人と物資が溢れたことによるようです。写真は碓氷川に架かる旧国道18号線の鷹之巣橋です。
 現在の碓氷川は水量が少なく、歩いて渡れそうですが、江戸時代は水量が多く渡しが必要だったようです。写真は、碓氷川渡し場跡です。
また、鷹之巣橋の近くには鷹巣神社の入り口、参道があります。しかし、参道の先は旧国道18号線があり、社殿がありません。一体どうなっているのでしょう? 写真は、鷹巣神社の入り口です。
 参道の石橋です。
 社殿は、現在の旧国道18号線を超え、碓氷川を見下ろす鷹巣山にあったようです。この鷹巣神社は、鷹巣山に鎮座する板鼻の鎮守だったようですが、現在は門が残るのみです。写真は、急坂を上ると見えてくる鷹巣神社の門です。
板鼻宿には、板鼻堰用水路があります。この板鼻堰用水路は、鷹巣山麓の堰口から水を取り入れ、板鼻、高崎八幡、剣崎、豊岡を経て烏川に落水する延長15キロメートルの用水路であり、1610年頃に作られたようです。板鼻地区では、この用水路の水を利用して鯉の養殖を行っている家が現在もあります。写真は、板鼻堰用水路であり、柵の右は用水路の水を引いた池です。
 鷹巣山麓の堰口から流れる板鼻堰用水路です。
また、板鼻には、B級グルメ、タルタルソースかつ丼で有名(?)な板鼻館があります。この板鼻館は、江戸時代、「角菱屋」という旅籠だったようです。店内には「角菱屋」と書かれた看板がありました。
板鼻宿から安中宿へ
殆ど遺構が残っていない安中城址には、安中藩安政遠足之碑があります。安政2年(1855)、藩主の板倉勝明が藩士の鍛錬を目的に、安中城門から碓氷峠の熊野権現神社まで七里七町を走らせ、徒歩競争をしたようです。
また、隣りの石碑に日本マラソン発祥の地安中と刻まれています。しかし、安政遠足をマラソンとするのは疑問が残りますね。
安中城址の近くには、新島襄が設立した安中教会があります。この安中教会は、アメリカから帰国した新島襄が安中に滞在した3週間の間に新島襄により洗礼を受けた人達によって設立されたようです。
新島襄は、アメリカから帰国した後の3週間を父母が住む安中の家で過ごしました。しかし、新島襄は江戸神田に安中藩士の子として生まれたため、殆ど安中で過ごした時期はなかったようです。
新島襄
これで板鼻宿と安中宿の散歩を終わります。

今回の散歩場所

5.新町宿、倉賀野宿、高崎宿

今回は新町宿、倉賀野宿、高崎宿を散歩しました。

まず、新町宿近くの群馬県と埼玉県の県境にある神流川古戦場跡へ
この地で行われた神流川合戦は、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形(現在の寄居町)城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いです。この合戦は、関東地方で最も大きな戦いと言われているようです。
この付近で合戦が行われたのでしょうか。写真は、殆ど流れがない神流川です。
神流川の合戦のとき、滝川一益は、現在の玉村町の軍配山古墳に本陣を張って軍配をふるったとされています。写真は、その軍配山古墳です。
中山道と例幣使街道の分岐に設けられた倉賀野宿の常夜燈
例幣使街道は、江戸時代、毎年朝廷から日光東照宮に派遣されていた使いである日光例幣使が通る街道です。この例幣使街道は、倉賀野宿で中山道から玉村宿へ分岐し、下野まで続きます。
倉賀野宿の脇本陣跡
高崎宿の長松寺
ここ長松寺の客間は、高崎城から移築されたものであり、江戸幕府三代将軍徳川家光の弟、徳川忠長(国松)が切腹した部屋と伝えられています。しかし、高崎大信寺で自刃したとの説もあり、定かではありません。兄家光との幼少期の将軍継承争いが、忠長の自刃につながってしまったのかもしれませんね。
また、長松寺には、狩野派の絵師「狩野探雲」による天井絵があります。
高崎宿と板鼻宿の間に上野国一社八幡宮(通称、八幡八幡宮)があります。
写真は、参道の階段です。
また、八幡宮の隣には、東京文京区大塚にある音羽護国寺の前身である大聖護国寺があります。五代将軍綱吉は、ここ大聖護国寺の住職に、高田御薬園の地(現在の大塚)を与え、音羽護国寺を開かせたようです。
これで、新町宿、倉賀野宿、高崎宿の散歩を終わります。

4.小田井宿、岩村田宿 小諸城址(懐古園)

今回は、小田井宿、岩村田宿と小諸城址(懐古園)を散歩しました。

まず、小田井宿へ
小田井宿は、江戸から数えて21番目の宿場であり、追分宿の次の宿場です。追分宿に大名たちが宿をとり、小田井宿に姫君や側女たちが宿をとったことから小田井宿は「姫の宿」と呼ばれたようです。
小田井宿の本陣跡
小田井宿の本陣は、孝明天皇の異母妹の皇女和宮が公武合体のため14代将軍家茂に降嫁した際に休憩をとったようです。川越えが東海道より少ない中山道を江戸に向かう降嫁の行列は、総勢3万人、長さ50Kmにまで及んでいたそうです。
 小田井宿から岩村田宿へ
岩村田宿は、江戸から数えて22番目の宿場でありましたが、岩村田藩の城下町であったため商業の町として発展してきたようです。
 岩村田宿にある龍雲寺へ
龍雲寺は、武田信玄公の遺骨が埋葬されたと伝えられる寺院です。
 信玄公は、将軍足利義明の呼びかけに応じて織田信長征伐をするための西上作戦の際に死去し、諸説あるようですが、この龍雲寺に遺骨が埋葬されたと伝えられているようです。写真は、信玄公の霊廟です。
 龍雲寺から西念寺へ
西念寺は、小諸藩主仙石氏と岩村田藩主内藤氏の菩提寺です。
 境内には、あまり馴染みがありませんが戦国武将の仙石秀久のお墓があります。
仙石秀久は、豊臣秀吉の最古参の家臣であり、秀吉の中国攻略に従軍し、また黒田官兵衛とともに淡路遠征して淡路島を平定し、その功績が認められていち早く大名に出世したそうです。その後、九州の島津薩摩藩と戦った戸次川の戦いで敗走したため、改易されたが、後の北条氏小田原征伐で活躍し秀吉に許されたそうです。秀吉の死後、秀久は、家康に接近し、家康が征夷大将軍に任ぜられると小諸藩初代藩主になりました。写真は、初代小諸藩主仙石秀久のお墓です。
中山道散歩はここで終了し、北国街道にある小諸城址へ
小諸城は、戦国時代に信玄の命を受けた軍師山本勘介の縄張りとなり、築城されたとする説がありますが、定かでないようです。その後、小田原征伐で功を挙げた仙石秀久が入城し、現在の城郭に改修されたようです。
小諸城は、明治期になりその役割を終え、懐古園となりました。写真は、懐古園の入り口となっている三の門です。
仙石秀久が築いたとされる野面積み石垣(自然石を加工することなくそのまま積み上げる石垣)です。小諸藩主として仙石秀久は、小諸城の城郭の改修、領地の開拓や整備に熱心に取り組んだそうです。
懐古園には、明治期に小諸義塾に赴任した島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の歌碑があります。「小諸なる古城のほとり・・・」
古城から見た千曲川
歌碑の近くの展望台から千曲川を眼下に望むことができます。
涼しい秋風の中、萩、桔梗、女郎花、薄などの秋の七草を見ながら気持ちの良い散歩ができました。これで小田井宿、岩村田宿と小諸城址(懐古園)の散歩を終わります。

今回の散歩地点

3.信濃追分~御代田

今回は信濃追分から御代田(みよた)を散歩しました。

まず、信濃追分駅から中山道へ
信濃追分駅から少し上った中山道の標高は1003メートルあり、気温は13℃と少し涼しい陽気でした。
 中山道の追分の一里塚
日本橋から数えて四十番目の一里塚です。
 旧中山道の追分宿にある浅間神社
追分宿は、江戸から数えて二十番目の宿場であり、今も往時の面影が残っています。
浅間神社には芭蕉の句碑がありました。
「ふきとばす石も浅間の野分かな」(松尾芭蕉)
 また、追分宿には、小説「風立ちぬ」を書いた堀辰雄の記念館があります。
堀辰雄は親交があった室生犀星とともに夏は軽井沢を訪れ、また晩年は追分に住んでいました。小説「風立ちぬ」は追分の油屋旅館や軽井沢の川端康成の別荘で書き上げたそうですね。写真の右側の建物が旧堀辰雄邸です。
多くの大名や文豪が常宿とした油屋旅館の面影
堀辰雄邸は油屋旅館の隣にあったようです。
復元された追分宿の高札場
旧中山道
現在の追分は、きれいに整備され観光地化しています。
追分宿は、沓掛宿(現在の中軽井沢)、軽井沢宿とともに浅間根越の三宿を形成していました。
堀辰雄が愛した石仏
堀辰雄の小説に登場するようですね。
追分宿の西口にあった茶屋つがる屋
写真左側の家屋には「つがるや茶屋」と書かれた看板がありましたが、現在は営業していないようです。
追分宿の分去(わかさ)れの道標
右が善光寺や越後に通じる北国街道、左が京に通じる中山道です。
分去れから御代田に向かう中山道
浅間山と新緑、桜が綺麗でした。
御代田の一里塚
追分の一里塚から一里を歩き、御代田駅へ
これで、信濃追分から御代田の散歩を終わります。

今回の散歩コース